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浜崎と観光

当店にお越しのお客様へ

当店がある萩市浜崎地区は、城下町の形成にともなって開かれた水産業で繁栄した港町で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、江戸時代の古地図が今でも使える古き良き町並みで形成しています。
当社工場兼店舗は、浜崎の中心に鎮座する住吉神社の小さい鳥居から南へ30m進んだところにございます。

住吉神社の大鳥居です。

住吉神社の小さい鳥居です。この鳥居を背にして南へ30mほど上ると当社工場兼店舗です。

海側・菊ヶ浜方面からお越しの際は、左手に住吉神社の小さい鳥居が見えます。鳥居の正面の道路を30mほど南へ進めば当社工場兼店舗です。

御船倉方面・萩山口信用金庫浜崎支店から海側に進むと、小さい鳥居が右手に見えます。鳥居正面の道路を南へ30mほど進むと当社工場兼店舗が左手に見えます。

当社店舗がある萩市浜崎新町1区です。画像中央の長い電柱のところに当店がございます。

当店入口です。作業中でもお気軽にお入りください。

最寄りの観光地

浜崎重要伝統的建造物群保存地区

当社が位置する浜崎地区は、平成13年に国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。江戸期の萩藩の経済活動を担った港町で、昭和初期まで問屋や物資を商う大店が立ち並んでいました。現在も江戸期の建物が約40棟、明治期の建物が約40棟、大正・昭和初期の建物が50棟程度残っており、藩主の御座船を納めた国指定史跡「旧萩藩御船倉」と共に古い町並みを形成しています。毎年8月には住吉神社を中心として1日の大祭、2日・3日の御神幸神事、4日の夏越神事が住吉祭りとして執り行われます。住吉祭り中の8月3日終日にわたり、「御船」山車に浜崎地区の「地謡組」が乗船して市中を奉納演奏する住吉神社「御船謡」は、山口県無形民俗文化財に指定されています。

萩・明倫学舎(萩藩校新明倫館跡・旧明倫小学校跡)
当店から車で8分、徒歩15分

萩城堀内に(古)明倫館は毛利吉元が享保3年(1718)に創建しました。嘉永2年(1849)に毛利敬親が萩城下町のほぼ中央にあたる江向に防長両国の最高学府として(新)明倫館を重建しました。文久3年(1863)、藩主敬親が藩庁を山口に移すとともに山口明倫館とよび、萩の学館を萩明倫館と改称し、文学科だけを存置して文学寮と称し文学寮御用掛としたときが慶応3年(1867)で、この時をもって藩校としての明倫館は幕を閉じました。さらに明治5年(1872)、この文学寮を萩中学校と改称するに及び、創建以来150年の伝統をもつ明倫館は藩校として没しました。明倫小学校は、明治5年(1872)学制頒布に伴い萩の三角州に開校した小学校10校をその前身としますが、その源流をたどれば藩校明倫館に至ると考えられます。明治18年(1885)7月27日、川内の諸小学校を合併し、明倫小学校と称した時が創立とされます。昭和10年10月10日午前10時に木造校舎の落成式が行われ平成26年(2014)3月31日までの130年にわたって地域の子どもたちと共に歴史を重ねてきました。平成26年4月1日に明倫小学校が新校舎に移転したのち、旧明倫小学校の木造校舎は、観光施設起点 萩・明倫学舎として整備され現在に至っています。
参考文献 : 明倫小学校百年誌

萩城下町
当店から車で10分、徒歩20分

分厚い白壁の重厚な武家屋敷、夏みかんが顔を出す土塀や鍵曲など、かつて城下町として栄えた町並みが色濃く残る萩城下町。
高杉晋作や木戸孝允など幕末から明治維新に活躍した偉人の生家が現存し、「明治日本の産業革命遺産」の構成要素の一つとして世界遺産にも登録されています。
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。
本丸には高さ14.4mの五層の天守閣がありましたが、明治7年(1874)に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。
旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万㎡の境内が指月公園として整備されました。城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があります。また、幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、家臣とともに茶事に託して時勢を論じた茶室「花江茶亭」が明治22年に園内に移築されています。
萩市観光協会公式サイト

 

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